コウドウをカタチに

考えるだけではなく行動するために

人間は奪い合い、見返りを求める生きもの?

タイトルだけ見ると少しきつい感じの内容に感じるけども
これを書こうと思ったのは、子どもの保育園の様子を見て思ったことです。

子どもの保育園の様子をみていて、
子どもたちが人形遊びをする中、
二つのおもちゃをつかっていた子のおもちゃを突然一つ取ってケンカ…
「二つ持ってるからダメ」という理由だという事みたいです。
もちろん取られた方は奪い返しに行きます。
二つ持っているとかは関係なく「先に使っていたから」という理由みたいです。

この光景を見ていて、3歳の理性が芽生えかけの本能むき出しの子どもたちは、
感情の赴くままに行動していると考えると人は本能的に欲しいと思ったら奪う
という傾向があるのではないかと考えてみた。

仕事においてもお客の奪い合い
恋愛においても異性の奪い合い
学校においても生徒の奪い合い
政治においても票数の奪い合い

そう考えると人が共存していく中で結構奪い合ってるなぁと感じる。
※多少極端な置き換えの例ですが

 ただし人は与えるという行為ができるようになる。
本能的に奪い合う人間が、何かを与えるという事ができるのは何故だろうか。

よくよく考えてみるとそこには「見返り」という言葉が出てくる。
何かを与えて、見返りをもらう、いわゆるギブアンドテイクである。

「自分は誰かに与えている」と思った人も
実際は見えないものだとしても何かをもらってないだろうか。

無償の愛というはよく言うが、愛情こそギブアンドテイクじゃないかなと思うところがある。
子どもにちゃんと向けた愛情は、子どもはきっと返してくれるもんだ。

でも異性に向けた愛情を返してもらえなくて、トラブルになるケースもある。
それは、確実に「見返り」を求めている結果の行動ではないでしょうか。

自己犠牲として与えるというのは、見返りを求めていないようにみえるが犠牲にするのは自分自身だけだが、広く見れば周囲の人などの不安などの心情などの犠牲のもとに成り立っていると考えると「与える」と同時に「失う」ものがあるので、相殺されてはないだろうか。またそういった自己犠牲は「自己満足」というケースも考えると「見返り」を求めないというのとは違う気がする。

本当に「与える」という行為ができるのは、自分自身に余裕があり、全てを悟った状態なのだろうか。
ビルゲイツなど富豪たちはボランティア活動に勤しむ。

でも、そうであっても愛情と同じで、やったことに対して喜んでくれる人がいることなど、やりがいがあり、何か返ってくるものがあるから続けているのではないだろうか。

 

何が言いたいか?

長々と書きましたが、結局どう考えても人は「見返り」を求めるので、
そういった人間の本質は理解しておくことで「与える」という行為を行った時、
意識的に「見返りを求めない」と自信に言い聞かすことが、後で与えた人から何もなかった時(お礼なども含め)でもイライラせずにトラブルにもつながりにくいのではないだろうか。

でも、与えられた人には、「ありがとう」の気持ちくらいは、
欲しいなと思ってしまう自分がいるので、基本的には何かを与えられたと感じれば、
お礼は言うように心掛けてはいます。

そうした人間の本質的な心理も考えながら行動することで、仕事も私生活もうまくいくこともあるのではないかと考えます。
人との関係性がうまくいかないという場合は、そういったことも考えても良いのではないでしょうか。